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火山ガス

1.4.5 火山ガス

火山ガスは、地下のマグマに溶けている揮発性成分が減圧によって分離し放出されたものである。圧力の低下割合が大きいと噴火に至るが、小さければ噴火を伴わない火山ガス放出がおきる。日本には110の活火山があるが、そのうち少なくとも54火山から常時火山ガスが放出されている。火山ガスの成分と濃度によっては、人体にとって有害である。

(1)火山ガスの種類

火山ガスの主成分は水蒸気(H2O)で、90%以上を占める。H2O以外の化学組成はその温度によって異なり、温度の高い火山ガスにはHF、HCl、SO2、H2、COなどが多く含まれ、温度の低い火山ガスではH2S、CO2、N2などが主成分となる。表-1.4.5.1に火山ガスの種類ごとの濃度と人体への危険性を示す。
表-1.4.5.1 火山ガスの種類と濃度による人体への影響

http://www.bousaihaku.com/bousaihaku2/images/B/kazansaigai/img/kg1_3_19.jpg
・二酸化硫黄(SO2)
二酸化硫黄は無色で刺激臭のある気体で、比重は 2.26(空気は 1)であり、空気よりも重い。呼吸器や眼、喉頭(ノド)などの粘膜を刺激し、高濃度の状態では呼吸が困難になることがある。また、ぜん息や心臓病などの疾患があると、健康な人が感じない低い濃度でも、発作を誘発したり症状を増悪させることがあるため注意が必要である。許容濃度は2ppmである。
硫化水素(H2 S)
硫化水素は、無色で、火山地帯や温泉などで卵の腐ったような臭いとして感じられる気体であり、比重は 1.19 で空気よりやや重い。0.06 ppm 程度の非常に低い濃度から臭気を感じるが、短時間で慣れにより臭気を感じなくなる。高濃度になると人体に影響を及ぼす。主な基準として、特定化学物質等障害予防規則や酸素欠乏症等防止規則で 10 ppmである。
・塩化水素(HCl)
塩化水素は無色、刺激臭のある気体で、比重は 1.27 で空気よりやや重い。低濃度でも目、皮膚、粘膜を刺激する。許容濃度として、日本産業衛生学会の天井値は 5 ppm である。
二酸化炭素(CO2)
二酸化炭素は、無色、無味、無臭の気体である。3 %以上で軽度の麻酔作用があり、7〜10%では酸素濃度が正常範囲でも数分で意識を失う。長期間の曝露限界は 1.5%程度と考えられる。バックグラウンド(通常の大気)の濃度が約 375 ppm程度であり、ビルなどの室内環境の基準は 1,000 ppm、ACGIHが定めたTLV-TWA 値は 5,000 ppm、短時間曝露限界値は 30,000 ppmである。


(2)火山ガス事故

1997年7月、青森県八甲田山でレンジャー訓練をしていた陸上自衛隊員20人が呼吸困難で倒れ、うち3人が死亡した。また、1か月後には、福島県安達太良山を登山中の50歳代の女性4人が沼の平近くの窪地で硫化水素ガス中毒でなくなった。また、阿蘇山では 喘息の持病を持つ観光客2名が、相次いで火山ガスで発作を起こし、その後亡くなった。これらの火山ガスの事故を契機に日本の各地の火山で火山ガス対策がとられるようになった。


(3)三宅島2000年噴火と亜硫酸ガス被害

三宅島2000年噴火は6月に始まり、 8月18日の最大規模のマグマ水蒸気爆発に続いて8月29日に火砕流が発生したことから、全島民は島外への避難を余儀なくされた。
その後、三宅島の中央に開いた雄山カルデラから、有害な二酸化硫黄などを含む火山ガスを、世界にも類を見ないほど大量に放出するようになった(図-1.4.5.1)。


図-1.4.5.1 気象庁による三宅島の火山ガス放出量の推移
http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/320_Miyakejima/miyake_So2.gif

降下火山灰と火山ガスの影響で変色した三宅島東部(アジア航測撮影)

火山ガスの影響で立ち枯れた植林地

火山ガスの影響で朽ち果てたフェンス(2005年7月14日清水恵助撮影)

火山ガスの影響で錆びた自家用車(2005年7月14日清水恵助撮影)



火山性地殻変動

1.4.7 地殻変動

火山活動に伴い、地表面に断層変位が生じたり、局地的な隆起や沈降を生ずることがある。これを「火山性地殻変動」とよぶ。一般的に、地殻変動はもっと長期的な広域的なものに使う用語であるが、火山活動に伴って生じた変形に対しても使用する。特に、潜在円頂丘の形成の際には、真上だけでなく周辺の広い範囲まで様々な地殻変動が観察される。このような地殻変動の影響範囲に、人間社会のインフラが含まれる場合、建物が、傾き破壊されたり、道路がずれるなどの、火山災害を生ずることがある。このような火山性地殻変動は、マグマの粘性や噴火様式と密接な関係がある。ここでは、デイサイト質マグマの例として有珠山玄武岩質マグマの例として伊豆大島を取り上げる。
なお、小笠原硫黄島などでは、噴火を伴わない、長期的な地殻変動も観測されている。


(1)1944年昭和新山

昭和新山は、有珠山の北東山麓で、水蒸気爆発を伴いながら1944-45年にかけて成長した側火山である。昭和新山の成長過程は、三松正夫によって克明なスケッチが多数残されている。その後、それぞれのスケッチの稜線を重ね合わせ、ミマツダイヤグラムが作成された。このダイヤグラムをみると、まず潜在円頂丘である屋根山ができ、その後中央部を突き破るようにマグマ本体からなる円頂丘が成長したことがわかる。この昭和新山が成長を続ける間、昭和新山の東側を通っていた国鉄胆振線は、地殻変動によって線路が変形し、何度も修復や移転を繰り返している。


図-1.4.7.1 昭和新山溶岩円頂丘の成長を示すミマツダイアグラム(2,5kmから観測)1)(三松,1962)
https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/usu/vr/images/8/84/Mimatsu-diagram.jpg


(2)2000年有珠山噴火

2000年噴火は、前兆となる群発地震のあと、3月29日に西山西山麓で突然マグマ水蒸気噴火で開始した。その後、多数の小火口が形成され、マグマ水蒸気爆発ー水蒸気爆発が発生した。また、火口群の間には多数の小断層が形成された。最終的に一帯は約70m隆起したので、地下に潜在円頂丘が形成されたものと解釈された。


図-1.4.7.2 洞爺湖畔の噴火記念公園に生じた断層(千葉撮影)

図-1.4.7.3 隆起中心部のグラーベン状凹地(千葉撮影)国道の法面から撮影

図-1.4.7.4 断層群によって階段状を呈する国道(千葉撮影、実体視使用、平行法)

図-1.4.7.5 隆起によって生じた湖(千葉撮影)

図-1.4.7.6 2000年噴火に伴う断層と火口の分布(アジア航測のホームページより)


(3)1986年伊豆大島噴火

1986年の噴火は、11月15日に始まった。当初、三原山中央火口でのストロンボリ式噴火であったが、11月21日から割れ目噴火を開始した。割れ目噴火開始直前に三原山の北側山腹に生じた地割れの写真を図-1.4.7.7に示す。これは、割れ目をもたらしたマグマの上昇による地表部の開口性割れ目の一部と考えられる。なお割れ目の伸びの方向は、σHmaxで、フィリピン海プレートの押しの方向に一致し、延長線上には三原山の中央縦穴火口が位置する。
また、21日の深夜、割れ目噴火の終了まぎわ、伊豆大島の南東側に群発地震が発生し、GPSで大きな変位が認められた。その後、翌朝になって、段差を伴う地割れを発見した(図-1.4.7.8)。これらのことから、地割れの地下に岩脈がはいったものと考えられた。
このように、玄武岩質火山の噴火に伴う地殻変動は、岩脈形成と密接な関係があるということがわかる。マグマの粘性が低いために、影響範囲は狭い。

図-1.4.7.7 割れ目噴火開始の数時間前に形成(千葉撮影)

図-1.4.7.8 伊豆大島南東部の落差を伴う地割れ 1986/11/21のマグマ貫入にともなって生成(11/22金子撮影)


(4)硫黄島の隆起活動

 硫黄島は
隆起を断続的に繰り返している。特に
2011年から2013年にかけて、 m、急激に隆起した。
この速度は、日本最高速度である。

http://blogs.yahoo.co.jp/ichikishigeo_07/archive/2014/1/24
この隆起によって海岸線は70mほど後退した

https://twitter.com/GSI_Research/status/415656327474458624/photo/1

参考文献

1)三松正夫(1962)昭和新山生成日記(自費出版).
2)東宮・()有珠火山地質図,産総研

2.雁ノ穴火口

このページは、一般社団法人全国地質調査業協会連合会「地質と調査」の原稿作成用に整理したものです。最終印刷版のpdfは ここ「2014年(特定テーマ富士山)」でみられます




はじめに

富士吉田市の南東側、東富士五湖道路の少し南に「雁ノ穴」という名所がある(図1、図2)。1932年に国の天然記念物に指定されている(図3、図4)。ここは、北富士演習場の中であるが、演習が休みの日は、地元の人がハイキングを楽しむ姿も見られる。津屋先生が1968年にまとめられた、富士火山地質図1)の中では、「雁ノ穴」は、雁穴溶岩流を噴出した火口として記載されている。また、活動の時期についても、雁穴溶岩流と遺物の関係などから、5 世紀から 7 世紀の間に噴出したことが知られていた。なお、最近の年代測定結果からは、AD435-560(2σ)という値が報告されている(2))。


図1 位置図 地理院地図1/2.5万による

図2 地理院地図1/2.5万と赤色立体地図の重ね合わせ

図3 雁ノ穴縦断面図

図4 雁ノ穴平面図

2003年の調査によるホルニト認定

その後、2000年の低周波地震の群発を受けて、2001年から2003年にかけて富士山のハザードマップ検討を行った。その中で、この雁ノ穴火口についても詳しい検討を行っている。その結果、「雁ノ穴」は、雁穴溶岩流の火口としては、どうも疑わしいという結論になった。その根拠は以下の通りである。(1)雁ノ穴の断面に火砕丘を示すようなスコリアやスパッターが認められない、(2)雁ノ穴周辺に、普通の火口付近で期待される火山弾が認められない。(3)雁ノ穴の火口の内部が一般的な火口がすり鉢型をしてるのに対し、ほぼ垂直で、周囲の斜面も火砕丘と比較して、きわめて急である。 これらの特徴は、溶岩トンネルのスカイライトの上に生じる、2次的な溶岩噴出現象、すなわちホルニトと一致する。雁ノ穴は、溶岩トンネルの末端部に生じた、出口であり、ここを雁穴溶岩の火口であるとするのは、適切ではないとした。その上で、雁穴溶岩流をもたらした火口は、雁ノ穴で終わっている溶岩トンネルの上流端付近、すなわちより富士山山頂に近い南方向にあると推定し、その位置は現地調査を行ったが不明であった。そのため、雁穴溶岩流をもたらした火口は、ハザードマップ検討のための側火口データには、含まれていない。

図5 本穴ホルニト

図6 崩れ穴

図7 溶岩トンネル

レーザ計測による判読と現地調査から、不明であったの火口の位置を確認

2009年雁ノ穴付近のレーザー計測が行われた。樹木を除去した1mDEMを使用した赤色立体地図による判読の結果、2003年のハザードマップ検討の際に行った、雁ノ穴はホルニトであり、普通の火口ではないという判断が正しかったことが確認できた。

図8 赤色立体地図
雁ノ穴の南に、一直線の溝が認められる。この、直線的な割れ目地形は、南北に伸びる幅5-10m、深さ2-10m、長さ500m。溶岩トンネルの上流側に割れ目の末端が位置することから、割れ目火口である可能性が高いと思われた。2009年の富士砂防の業務の中で行った現地調査では、割れ目の東側に高まりがあること、この高まりより南側の割れ目から北東方向に、直接溢れ出した溶岩流があること。溶岩流の中には多数の溶岩樹型があること。非対称性から流下方向の推定を行ったところ、割れ目方向からあふれ出したということが確認された,
 また、2014年の調査は、台風の直後であったために、この高まりには多数の風倒木がみられた。風倒木の根の裏側は雨で洗い流されており、根に絡みついた数多くの赤色酸化したスパッターや火山弾を確認することができた。これらことから、直線状の割れ目は、火口であることと考えられる。
 また、この割れ目火口付近の溶岩と雁ノ穴溶岩の、全岩化学組成の比較検討を行ない、両者はよく一致するという報告がある。これらのことから、雁穴溶岩は標高 1,060mから 1,000mという低標高部の割れ目火口から噴出したと断定できる。

図9 割れ目火口 はっきりしている地点

図10 割れ目火口 広くて埋まってわかりにくい地点*

図11 手乗り火山弾

図10 溶岩樹型
元の割れ目地形の南端は、■■溶岩流付近で消失しするが、■■溶岩流に覆われてはおらず、より新しいものと考えられた。
雁穴溶岩の火口はこの割れ目火口から流れ出し、雁ノ穴の南の割れ目火口の末端部から溶岩トンネルに入り、崩れ穴付近を通過し、雁ノ穴の本穴ホルニトに到達していることが確認された。

雁ノ穴本穴ホルニトの意味

 本穴ホルストの北側には本穴ホルストを中心として放射方向に複数の馬蹄形溶岩流出地点と溶岩流のながれる谷が分布している。本穴ホルニトの内部は正確に鉛直で水平断面は円形をなす。太くて長く、周囲に溶岩餅が積み上がっているので、溶岩樹型ではない。この縦穴がある位置は、溶岩トンネルの真上であり、上流側からのマグマ供給と下流側への溶岩流出の間で、流量調整を行っていたのではないかとおもわれる。上流側からの供給が下流での流下能力を超えた場合は、ここで、マグマ頭位が上昇し、最上部からオーバーフローし、周りに積み上げる。逆にマグマ供給が不足した場合は、本穴ホルニトのマグマ頭位が下がる。これを繰り返し上下したために、鉛直で正確に円形の、太さの揃った縦穴が残ったのではないか。

ハザードマップへの課題

この、雁ノ穴のすぐ南側の南北方向の割れ目が、雁穴溶岩の火口である事が間違いないということになると、この割れ目火口の活動時期は過去3200年間に含まれるので、ハザードマップ検討のための火口位置データベースに含める必要がある。
そのうえで、2003年当時のデータベースに基づいた火口形成可能性の高い範囲検討をやり直さなくてはならないことになる。その図を更新し、その外周線上でシミュレーション計算を行い、溶岩ハザードのゾーニングをやり直す。その後、その結果に基づき防災マップを再検討する。この地点は、富士吉田市街地から非常に近い。この割れ目火口を中心とした半径1kmの範囲には、東富士五湖道路がはいってしまう。避難所や、避難ルート、都市計画の基本的な考え方にも影響するだろう。容易なことではないが、避けては通れない。
 あたらしい、過去の噴火にたいする知見が出るたびに、何度も書き換えるのかという意見もあるだろう。それは、タイムリーにやった方がいいと思う。ちょうど、われわれが利用しているOSに脆弱性が見つかった場合、ただちにアップデートするように、社会の脆弱性が明らかになったら、その都度対応していかなければならないのだろう。3.11の轍を踏んではならない。


図11 現状の富士山ハザードマップ作成で使用した将来火口形成可能性の高い範囲と雁ノ穴の位置関係


2005年にとりまとめた富士山のハザードマップ作成では、火口形成可能性の高い範囲を以下のような方法で整理した。
(1)過去3200年間の割れ目火口を含む側火口データベースを作成した。側火口の位置(緯度・経度・高度)と年代と噴出量を整理した。
(2)噴火規模ごと(大規模、中規模、小規模の3種類)に側火口を中心とする半径1kmの範囲、およびその側火口と山頂を結ぶ線の両側1kmが、近い将来火口が形成される可能性がより高い範囲として作図した。
(3)噴出の規模ごとに、それぞれの規模毎のエリアの外周線から、それぞれの規模の溶岩流のシミュレーション計算を実施した。計算開始点は、下流の地形を配慮し、もっとも遠方に到達しそうな地点を約2kmおきに設定した。
(4)すべてのシミュレーション結果を規模ごとの最遠到達地点を連ねるように包含線を引く
(5)到達領域の包含線を規模ごとに作成したものを、時間ごとに並べ替え、時間ごとの包含線のORをもってハザードエリアとした。


2013年11月3日に行われた、日本地質学会関東支部の富士山巡検で案内を担当した。その際に現地での説明の記憶を整理。当日は、富士砂防事務所からも3名同行

1) 富士火山地質図
2) 中野俊:富士山の噴火履歴と活動評価
3)土屋郁夫・永井健二・三輪賢志・岸本博志・鈴木雄介・千葉達朗・小川紀一朗:富士山における航空レーザー計測データを活用した火山防災のための地形分析 ,砂防学会講演予稿集,
http://www.jsece.or.jp/event/conf/abstruct/2010/pdf/P-108.pdf

1.鳴沢村ジラゴンノ

1.ジラゴンノ運動場脇の青木ヶ原溶岩の断面

富士山の青木ヶ原溶岩を使った溶岩プレートは、焼肉用に最適です。大きく薄いわりに気泡が適度に含まれているので、油を吸い込み、おいしく焼けるのだとか。近年は、青木ヶ原溶岩の採取は禁止され、砕石場はすべて閉鎖されています。残っている溶岩プレートの在庫は大変貴重なのだそうです。
 焼肉プレート用の溶岩の採掘は、重機などを使って無理に割ると、効率的ですが、余計な亀裂がはいって、大きなプレートの歩留まりが悪くなるので、もっぱら手堀りだったのだそうです。いったいどうやって厚くて堅い溶岩を手で掘ったのか、地元の人に聞いてみました。それは、思いもよらない方法でした。
 鳴沢村付近の青木ヶ原溶岩流の下位には、約3000年前の大室山噴火でもたらされた大室スコリアが厚く堆積しています。このスコリアは、サラサラですから、スコップなどで簡単に掘ることができます。溶岩の下にある、この層をどんどん掘っていって、溶岩の層をオーバーハング状態にする。人が入れるくらい掘るのだそうです。もちろん、だんだん不安定になります。そしてついには、トップリングで傾き、どーんと倒れる。その直前に、きしみ音を聞いて間髪を入れず穴から逃げ出す。かなり危険な手法のようです。なぜならこの付近の溶岩の厚さは数m程度で、最大10m近くもあるのです。しかし、そのようにして倒すと、もともと溶岩流の中にあった、収縮亀裂にそって割れるので、余計な割れ目のない大きな塊が取れる。岩が倒れるときも、溶岩の下から掘り出したサラサラのスコリアの上にやさしく着地するので、ほとんど割れないのだそうです。その後注意深く小割していく。そうやって、長年、焼肉用の溶岩プレート用石材の生産を続けていたのだそうです。

図1 鳴沢村青木ヶ原溶岩採石場 国土地理院1975年撮影


図2 青木ヶ原溶岩流直下の大室スコリア層 熱によって赤色酸化している

現在、この採石場跡地は埋め立てられ、運動場として利用されています。運動場を囲むフェンスのさらに外側には、溶岩断面が残されています。特殊な砕石手法のおかげで、溶岩流の美しい自然な垂直な断面をが観察できるのです。この付近の一連の露頭は、大変貴重であるとして、鳴沢村教育委員会によって指定され、手厚く保護されています。
誰でも、いつでも自由に観察できる場所として、露頭の前は車を停められる広場になってます。大型の観光バスも入れるので、富士山の山麓の地質巡検の時には欠かせないポイントになっています。

この露頭では、溶岩断面に複数の縦穴が特徴的に認められます。直径は数十センチから数m程度に及びます。これはいわゆる溶岩樹形と呼ばれるものです。
樹林地帯に、粘性の低い高温の溶岩流が流れ込む場合、細い木などなぎ倒されてしまいますが、太い木はすぐに倒れないて、燃えながらも溶岩に抵抗する。もちろんやがては、炭になり灰になってほとんど跡形もなくなるのですが、そのころまでには、まわりの溶岩のほうが先に固まっている。そうすると樹木のあったところには、縦穴が残る。これが溶岩樹形の成因です。

さて、普通、地層が堆積する場合には、地層塁重の法則に従います。新しいものほど、より上位に堆積するわけです。上位にあるものほどより新しいはずだと思って地層を観察するという言い方もできます。
しかし、まれにそうではないこともあります。粘性の低い溶岩流はその例外のひとつです。大量の溶岩が緩斜面を流れる際や平坦地に流れ込んだような場合、表面が冷却しているのに内部がまだ固まりきらずに液体状態のままということがあります。そこに新しい、溶岩が流れ込んできた場合、その溶岩流の上に塁重せずに、溶岩流の内部の、まだ固まっていない部分に層状に注入付加して、全体としての厚みが増すということがあります。これが、溶岩流のインフレーション「溶岩膨張」とよばれる現象です。上ほど新しいという地層塁重の法則に反しているわけです。

樹形を、無理に上下に引っ張るとどうなるのか、そういうイメージです。うまく想像できなくても問題ありません。鳴沢村のジラゴンノ採石場跡地の青木ヶ原溶岩は、インフレーションもしているので、この露頭を観察すれば、その断面をつぶさに見ることができるのです。

断面を観察すると、樹形の内部にめねじの様な上下引張引き剥がし構造がたびたび認められます。半ば固まった溶岩樹形を、上下にゆっくり引っ張ってできた構造のようです。とても興味深い構造です。普通の溶岩樹形の断面を部分的に残しているものもありますので、その膨張の様子がわかってとても興味深いものです。
さて、ここで、問題があります。これらの溶岩樹形の膨張断面には、それぞれ看板が立てられています。看板には、これは世界的に珍しいここだけで見られる「スパイラクル」というもので、溶岩流を貫いて水蒸気爆発が発生した痕跡に他ならないとあるのです。

これは、明らかに間違った説明です。修正しなくてはなりません。
この青木ヶ原溶岩の断面の見事な露頭が発見され、保護しようという動きがあったのは、1970年頃です。当時は、まだ溶岩膨張という見方も考え方もありませんでしたから、田中収先生が「スパイラクル」であるという考えをしたのも、仕方なかったのかもしれません。もちろん、当時から異論も多く、津屋先生の論文にも、スパイラクルといわれているものの最下部からカラマツの根が見つかったので、水蒸気爆発説は誤りだという指摘が残っています。しかし、露頭の前の看板は、訂正されずそのままでした。

(1)スパラクルならば、水蒸気爆発に伴い下の地層の一部を巻き込み、パイプ構造の内側に付着したり入り込むことがあるが、そういう例はみつからない。(2)直下にある層は、湖成層や泥炭などではなく、風成層であり、溶岩樹形も多数あるので、水蒸気爆発を起こしやすいとは考えにくい。(3)溶岩樹形とスパイラクルと呼べれるものの大きさや分布に違いが見られない。(4)樹形とスパイラクルの中間的なものがあるが、樹木がある場合には、同じパイプを使った水蒸気爆発は起こりえない。(5)スパイラクルと呼ばれるものの上部は、じょうご型を呈しており、周囲に水蒸気爆発による噴出物は認められない。(6)縦穴を取り囲む、気泡のサイズや形、配列の特徴は、溶岩樹形の特徴と共通する。
など、さまざまな観察結果は、すべて、水蒸気爆発によるスパイラクル説を否定するものばかりである。

一方、この露頭で見られる青木ヶ原溶岩が、インフレーションをした、溶岩膨張をしたという証拠は多数観察できます。世界的に有名な米国のコロビアリバーバサルトcolombia river basaitの断面スケッチと、驚くほどよく似ています。多数の共通する特徴があるのです。以下に関係する写真を示します。







平成の火山災害 雲仙岳噴火

有史の噴火災害

雲仙火山は,島原半島の主部を占める活火山で,多くの溶岩ドーム群からなる複成複式火山である.有史以降,1663年,1792年,1990〜1995年の3回の噴火があるが,いずれも主峰の普賢岳からの噴火であった.1663年の噴火では,普賢岳山頂付近の九十九島火口から噴火を開始し,北東山腹から溶岩(古焼溶岩)を流出した.その翌年には東斜面に土石流が発生して30余人が死亡した.1792年の噴火では,普賢岳の地獄跡火口から噴火後,北東山腹から溶岩(新焼溶岩)を流出した.噴火終息後、およそ1ヶ月後に発生した地震により,東側にある眉山溶岩ドームの東斜面が崩壊,0.34km3の岩屑なだれが有明海流入した.そのため,大津波が発生し,死者1万5,000人に達する日本最大の火山災害となった.対岸の熊本側にも被害が及び、「島原大変肥後迷惑」と伝えられている.


写真1.2-1 雲仙普賢岳眉山(1992年1月20日アジア航測撮影)
手前右側にあるのが眉山の崩壊

平成噴火の推移

1990−1995年の噴火は,1990年11月17日,普賢岳の地獄跡火口と九十九島火口での水蒸気噴火で始まった.1年前に橘湾の地下数キロではじまった群発地震が、徐々に東に移動し浅くなってきたことから、近いうちに噴火という予測記事がでた日でもあった。その後,噴火は徐々にマグマ性変化し、2月頃からはマグマ水蒸気噴火を繰り返すようになった。その後、1991年5月20日から地獄跡火口底に溶岩ドームが頭を出し、1日あたり数万立方メートルという割合で成長を始めた。以後,溶岩ドームの成長に伴い,火砕流が頻発するようになった.火砕流は東方向や南東方向に計約6,000回発生したが,そのうち数回は流下距離が4kmを越えた.溶岩噴出量は,最盛期には1日に30〜40万m3に達した.1992年末には溶岩の噴出は弱まり、ほとんど停止したかに見えたが,1993年2月には再び活発化,火砕流は北方向に発生するようになった。最終的には、火口の上に一つの巨大な溶岩ドームを形成した.1995年2月に噴火は終息したが,溶岩総噴出量は2億m3で,そのうち約半分が溶岩ドームとし残り,それ以外は、周囲の崖錘状堆積物や火砕流堆積物・土石流堆積物となった(図3.1.1.2).


図3.1.1.3 溶岩ドームの体積変化図


一次災害

(1)火砕流
 溶岩ドームは、5月24日には地獄跡火口から溢れ出し、溶岩の一部が山体斜面転がり落ちるようになった。この高温の溶岩は内部に過剰圧の火山ガスを含んでいたので、自爆性が高く、谷に流れ込むと火砕流となって遠方に徐々に遠方に到達するようになった。6月3日には既往山体の一部をともなって地すべり的に崩壊、それまでの最大到達距離の2倍に達する火砕流と火砕サージを発生させた。火砕流本体は低所にある水無川沿いに流れたが、上部の熱風部は高台へ直進、約4.3kmはなれた島原市北上木場の定点付近に達し、そこで撮影をしていたマスコミや火山学者など43名が犠牲となった。
崩壊によってできた馬蹄形の窪地には,新ドームが形成され,6月8日に再び崩壊した.これはさらに大きく山体を崩壊させたため,火道が直接露出,マグマ的な爆発をともなった.発生した火砕流は熱風を伴い,広い範囲に火災を発生させた.
 その後,1991年6月11日の軽石噴火を除けば,溶岩ドームの形成とその崩壊による火砕流の発生がくりされた.1991年9月15日にも溶岩ドームが北東のおしが谷方向に崩壊,最大規模の火砕流が発生し大野木場に達した2).その後1992年末には噴出率がいったん低下したが,翌1993年はじめから再び増加,1993年6月23・24日に千本木,6月26日に水無川方向へ大きな火砕流が発生し,国道57号線をはじめて越えた.このように雲仙岳噴火における火砕流は,ほとんどが溶岩ドームの崩壊によって発生するメラピタイプと呼ばれるものであった.また,下流域に被害をもたらすような比較的規模の大きな火砕流は,溶岩ドームが基盤をも巻き込んで,大きく地すべり的崩壊をした際に発生している.


図3.2.1.1 1991年6月3日の火砕サージで倒れた樹木
(定点付近、1992年12月27日千葉達朗撮影)


(2)1993年に入ると,火砕流の流下方向は北東斜面のおしが谷や中尾川方面が多くなった.そして1993年6月23日の中尾川方向の火砕流では,島原市千本木地区の多数の家屋が焼失したほか,警戒区域内の自宅を確認に行った市内の男性が全身やけどで死亡した.
溶岩ドームの巨大化で,1994年には北方向の湯江川や三会川方面に初めて火砕流が流下した.1995年2月には溶岩噴出が停止し,同年3月30日には九州大学太田教授より「普賢岳の噴火活動はほぼ停止」と表明があり,5月25日には火山噴火予知連絡会より「マグマの供給と噴火活動はほぼ停止状態にある」という統一見解が発表され,最数的に1996年5月1日を最後に火砕流の発生は止んだ.
しかし,溶岩ドームは依然として不安定な状態で残っており,今後も地震や大雨等による崩落の危険があることから,警戒区域については,範囲を縮小しつつも2011年現在でも設定が続けられている.

図3.1.2.4に全期間の火砕流流下範囲を示す.




図全期間の火砕流流下範囲


1.2.3. 二次災害

1991年5月15日未明に水無川において最初の土石流が発生し,島原市深江町の117世帯461人が避難した.同年6月30日には,集中豪雨により普賢岳を水源とする水無川,赤松谷川,湯江川,土黒川で土石流が発生した.6月30日の日降水量は島原市で226mmに達し,特に17〜18時に45mm,18〜19時には78mmの強い雨が降った.このため,18時過ぎに中尾川上流で土石流が発生した.水無川における土石流の発生時刻は不明であるが,土石流の先端は火口から約7km下流有明海に達し,安徳地区を
中心に甚大な被害を及ぼした.この土石流による建物被害は148棟にも上った.
1992年3月1,15日には水無川で土石流が発生し,道路や島原鉄道が一時寸断された.同年8月8,12,15日には茶屋の松橋付近から溢れた土石流が流域の30haにわたり,氾濫,国道251号や島原鉄道が埋没したほか,家屋や農地等に大きな被害をもたらし流域の家屋355棟が全半壊した.
1993年4月28日04時頃から降り始めた雨は,雲仙岳測候所で29日10時30までに総雨量238mmに達し,このため水無川で数回の土石流が発生,338棟の家屋が全半壊した(図3.1.3.1).また,この日初めて中尾川においても土石流の発生が認められ,南千本木町で家屋被害が発生した.

図3.1.3.1 土石流により押し流された自動車(1993年4月29日撮影)

また,同年5月2日に水無川,中尾川で数回の土石流が発生し被害が拡大した.また土石流発生の度に島原市は一時孤立状態になった().

図3.1.3.2 土石流による水無川の被害状況(1993年5月2日)






図3.1.3.3 1993年7月4日中尾川で発生した土石流
(1993年5月2日杉本伸一撮影)

6月13〜15日,6月18〜19日にも水無川,中尾川で数回の土石流が発生した(図3.1.3.4).

図3.1.3.4 土石流による安中地区の被害?況1993年6月20日撮影)

土石流は,1991年5月15日に水無川で発生して以来,現在に至るまで続いている.


1.2.4. まとめ

雲仙普賢岳の噴火災害を特徴づける現象は,何といっても溶岩ドーム崩落型火砕流と土石流である.とくに,火砕流はわが国における近年の噴火災害で数多くの映像記録が得られたこともあり,火山学的にも運動メカニズムや被害特性に関する多くの知見が得られた.
噴火によって山麓斜面に堆積した火山灰などの火山砕屑物が,その後の降雨によって土石流化することは有珠山1977〜78噴火でも知られていたが,雲仙普賢岳では,火砕流堆積物が厚く覆った水無川や中尾川で頻発したことも,モンスーン地帯における火山災害を考える上で多くの経験を残した.
また,噴火の長期化によって島原市を始めとする地域に社会的・経済的影響が深刻となり,被災者支援などの課題が顕在化した.火山国であるわが国の噴火災害対策の議論を進展させた意義も大きい

宮地直道さん

日本大学文理学部の宮地さんが亡くなってからもう2年半になる。1年半前に、追悼文を依頼されたのだが、途中であきらめてしまった。気持ちの整理がうまくつかなかった。
宮地直道さんは、愛知県日進町で医者の一人息子として、1957年3月にお生まれになりました。癌でなくなったときはまだ54歳でした。宮地さんは、東京世田谷にある日本大学文理学部応用地学科に1976年に入学され、その後、日本大学大学院理工学研究科地理学専攻の博士前期課程・後期課程と進まれ、1986年に富士山の火山灰の研究で日本大学から博士号を授与されています。その後、公務員の上級試験に合格され、農水省に入られました。公務員時代は、農業環境研究所を皮切りに、北海道農業試験場、静岡県茶研などにつとめられ、請われて、母校の教員になったのは、2002年のことでした。ですから、母校での教員は10年間ということになります。10年の間の教え子達は、宮地研1期生から10期生まで、すばらしいチームワークで、宮地さんの教えを守って社会で活躍しています。
わたしは、1975年入学なので、彼の1年先輩ということになる。ともに、遠藤邦彦教授の研究室で学んで、穴を掘ったり噴火に遭遇したりいろいろなことをいっしょにやった。よき研究仲間であり、越え難い優秀ななライバルであり、そして友人だった。ただ、お互いの研究スタイルはだいぶ違っていた。おなじ露頭を前にしても、調査手法や発想が違うので、結論も違うことも多かった。違うタイプの人間が一緒にやるのは、ものごとの本質をあぶりだすやり方としては、よかったのかもしれない。
ここでは、宮地さんらしいいくつかのエピソードを紹介したい。



伊豆大島の調査

1986年11月21日、私は宮地さんや遠藤先生とともに、特別の許可を得てカルデラ内に立ち入り、19日に流れたばかりの溶岩流の調査を行っていた。
目の前で割れ目噴火が発生した。その瞬間、一番近くにいたのは宮地さんだった。その時に撮影した写真がこれである(写真1)。

写真1 宮地撮影 

溶岩流のまとめ

1.4.4 溶岩流

 マグマが地上を液体として流れた場合、溶岩がながれたといい、それが冷却固化したものを溶岩流と言う。
マグマの融点は高く、液体にするためには、高温が必要である。固体から液体となる温度-圧力条件ははSiO2成分の割合と揮発成分の割合で変わる。SiO2の含まれる割合が少ない場合ほど高温で、揮発成分が多いほど溶けやすくなる。また、圧力が高くなるとより溶けにくくなる。したがって、マグマの生成には、温度の上昇、圧力の低下、揮発成分の付加が必要とされることになる。また、同じ液体でも温度と粘性の間には一定の関係があり、温度が高いほど粘性が低くなる。つまり、SiO2成分が少ない場合より低粘性になり、斑晶が含まれる場合、粘性はより高くなる方向に変化する。

The viscosity of magmas as a function of temperature. Magma is assumed to be volatile free. Figure from Spera, 2000.1)

表面形態

溶岩流は、その表面形態から、パホイホイ溶岩、アア溶岩、ブロック溶岩に分類される。
(1)パホイホイ溶岩

(2)アア溶岩

(3)ブロック溶岩

溶岩地形

溶岩流が流れる過程でも徐々に温度は低下するので、粘性が増加、速度が低下しついには固体となり停止します。その過程が溶岩表面に微地形として記録されるわけです。また、溶岩流の表面は大気と接し、溶岩流の下部は地面に接していますので、内部よりも早く冷却されます。その結果後続の溶岩流が未固結の溶岩流の中央部を流下することがあります。この空間が最終的に満たされずに、空間となって残った場合、それを溶岩トンネルといいます。溶岩トンネルが形成されると、かこうから離れた地点まで、あまり温度を下げることなく高速で移動することが可能となりますので、溶岩流の到達範囲はより遠方に及ぶと考えられます。

溶岩流の幅や厚さ形状は傾斜と大きな関係があります
仮に、一定の流量で定常的に流れた場合でも
流下中に傾斜が急な場合は高速度の流れとなり幅が狭くなり、
傾斜が緩くなると幅が広がりゆっくり流れます。流速の変化が縦断方向に現れるので、追突の構造や引っ張り構造が表面に現れます。先端部のほうが流速が小さい場合は追突による溶岩じわが形成されます。一方先端部ほど流速が早い場合には、横断方向に溶岩亀裂が形成されます。亀裂は上流側に弓なりに凸となります


溶岩流によって甚大な被害が予想される場合、
人工的に堰き止めたり流路を変えたり冷却したりして、災害を軽減することが試みられています.
流路は地形に従うので、溝を掘ったり、堤防を築いたりして流れを安全な方向に導く方法がとられます.
しかしながら、溶岩流が迫り来る中での工事は危険が伴い、流向きも定まらないことがあり、なかなか困難です
(1)アイスランドの例 港の入り口が堰き止められると島の経済が成り立たなくなるために、米軍の協力も得て、大規模な放水が行われました
(2)イタリアの例 エトナ火山の噴火では、スキー場のすぐ近くに加工ができたため、溶岩流が来るのを防ぐために 
   ブルドーザーで堤防を作りました
(3)ハワイ ヒロ 爆弾投下 あまり効果がなかった
日本でも 三宅島1983年噴火で阿古で放水が行われています
ハワイのkirauea火山の噴火では溶岩流が家に迫ったために
大量の水をかけ守った例が知られています


溶岩流の速度は数キロから数十キロ程度で、走って逃げられる程度である。

しかし、コンゴの 山の噴火では、溶岩湖の底が抜け一気に大量の薄い溶岩流が航測度でゴアの町を襲った
溶岩流の対策は

伊豆大島1986年溶岩
LC溶岩 元町まで200m 停止
その後 2013年度に完成 よく年台風災害 土石流が発生したが 大きな被害はなかった



伊豆大島の溶岩導流堤



1)Spera, F.J., 2000. Physical Properties of Magma, in: Sigurdsson, H. (Ed.), Encyclopedia of Volcanoes. Academic Press, San Diego, CA, pp. 171-189.