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宮地直道さん

日本大学文理学部の宮地さんが亡くなってからもう2年半になる。1年半前に、追悼文を依頼されたのだが、途中であきらめてしまった。気持ちの整理がうまくつかなかった。
宮地直道さんは、愛知県日進町で医者の一人息子として、1957年3月にお生まれになりました。癌でなくなったときはまだ54歳でした。宮地さんは、東京世田谷にある日本大学文理学部応用地学科に1976年に入学され、その後、日本大学大学院理工学研究科地理学専攻の博士前期課程・後期課程と進まれ、1986年に富士山の火山灰の研究で日本大学から博士号を授与されています。その後、公務員の上級試験に合格され、農水省に入られました。公務員時代は、農業環境研究所を皮切りに、北海道農業試験場、静岡県茶研などにつとめられ、請われて、母校の教員になったのは、2002年のことでした。ですから、母校での教員は10年間ということになります。10年の間の教え子達は、宮地研1期生から10期生まで、すばらしいチームワークで、宮地さんの教えを守って社会で活躍しています。
わたしは、1975年入学なので、彼の1年先輩ということになる。ともに、遠藤邦彦教授の研究室で学んで、穴を掘ったり噴火に遭遇したりいろいろなことをいっしょにやった。よき研究仲間であり、越え難い優秀ななライバルであり、そして友人だった。ただ、お互いの研究スタイルはだいぶ違っていた。おなじ露頭を前にしても、調査手法や発想が違うので、結論も違うことも多かった。違うタイプの人間が一緒にやるのは、ものごとの本質をあぶりだすやり方としては、よかったのかもしれない。
ここでは、宮地さんらしいいくつかのエピソードを紹介したい。



伊豆大島の調査

1986年11月21日、私は宮地さんや遠藤先生とともに、特別の許可を得てカルデラ内に立ち入り、19日に流れたばかりの溶岩流の調査を行っていた。
目の前で割れ目噴火が発生した。その瞬間、一番近くにいたのは宮地さんだった。その時に撮影した写真がこれである(写真1)。

写真1 宮地撮影