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平成の火山災害 雲仙岳噴火

有史の噴火災害

雲仙火山は,島原半島の主部を占める活火山で,多くの溶岩ドーム群からなる複成複式火山である.有史以降,1663年,1792年,1990〜1995年の3回の噴火があるが,いずれも主峰の普賢岳からの噴火であった.1663年の噴火では,普賢岳山頂付近の九十九島火口から噴火を開始し,北東山腹から溶岩(古焼溶岩)を流出した.その翌年には東斜面に土石流が発生して30余人が死亡した.1792年の噴火では,普賢岳の地獄跡火口から噴火後,北東山腹から溶岩(新焼溶岩)を流出した.噴火終息後、およそ1ヶ月後に発生した地震により,東側にある眉山溶岩ドームの東斜面が崩壊,0.34km3の岩屑なだれが有明海流入した.そのため,大津波が発生し,死者1万5,000人に達する日本最大の火山災害となった.対岸の熊本側にも被害が及び、「島原大変肥後迷惑」と伝えられている.


写真1.2-1 雲仙普賢岳眉山(1992年1月20日アジア航測撮影)
手前右側にあるのが眉山の崩壊

平成噴火の推移

1990−1995年の噴火は,1990年11月17日,普賢岳の地獄跡火口と九十九島火口での水蒸気噴火で始まった.1年前に橘湾の地下数キロではじまった群発地震が、徐々に東に移動し浅くなってきたことから、近いうちに噴火という予測記事がでた日でもあった。その後,噴火は徐々にマグマ性変化し、2月頃からはマグマ水蒸気噴火を繰り返すようになった。その後、1991年5月20日から地獄跡火口底に溶岩ドームが頭を出し、1日あたり数万立方メートルという割合で成長を始めた。以後,溶岩ドームの成長に伴い,火砕流が頻発するようになった.火砕流は東方向や南東方向に計約6,000回発生したが,そのうち数回は流下距離が4kmを越えた.溶岩噴出量は,最盛期には1日に30〜40万m3に達した.1992年末には溶岩の噴出は弱まり、ほとんど停止したかに見えたが,1993年2月には再び活発化,火砕流は北方向に発生するようになった。最終的には、火口の上に一つの巨大な溶岩ドームを形成した.1995年2月に噴火は終息したが,溶岩総噴出量は2億m3で,そのうち約半分が溶岩ドームとし残り,それ以外は、周囲の崖錘状堆積物や火砕流堆積物・土石流堆積物となった(図3.1.1.2).


図3.1.1.3 溶岩ドームの体積変化図


一次災害

(1)火砕流
 溶岩ドームは、5月24日には地獄跡火口から溢れ出し、溶岩の一部が山体斜面転がり落ちるようになった。この高温の溶岩は内部に過剰圧の火山ガスを含んでいたので、自爆性が高く、谷に流れ込むと火砕流となって遠方に徐々に遠方に到達するようになった。6月3日には既往山体の一部をともなって地すべり的に崩壊、それまでの最大到達距離の2倍に達する火砕流と火砕サージを発生させた。火砕流本体は低所にある水無川沿いに流れたが、上部の熱風部は高台へ直進、約4.3kmはなれた島原市北上木場の定点付近に達し、そこで撮影をしていたマスコミや火山学者など43名が犠牲となった。
崩壊によってできた馬蹄形の窪地には,新ドームが形成され,6月8日に再び崩壊した.これはさらに大きく山体を崩壊させたため,火道が直接露出,マグマ的な爆発をともなった.発生した火砕流は熱風を伴い,広い範囲に火災を発生させた.
 その後,1991年6月11日の軽石噴火を除けば,溶岩ドームの形成とその崩壊による火砕流の発生がくりされた.1991年9月15日にも溶岩ドームが北東のおしが谷方向に崩壊,最大規模の火砕流が発生し大野木場に達した2).その後1992年末には噴出率がいったん低下したが,翌1993年はじめから再び増加,1993年6月23・24日に千本木,6月26日に水無川方向へ大きな火砕流が発生し,国道57号線をはじめて越えた.このように雲仙岳噴火における火砕流は,ほとんどが溶岩ドームの崩壊によって発生するメラピタイプと呼ばれるものであった.また,下流域に被害をもたらすような比較的規模の大きな火砕流は,溶岩ドームが基盤をも巻き込んで,大きく地すべり的崩壊をした際に発生している.


図3.2.1.1 1991年6月3日の火砕サージで倒れた樹木
(定点付近、1992年12月27日千葉達朗撮影)


(2)1993年に入ると,火砕流の流下方向は北東斜面のおしが谷や中尾川方面が多くなった.そして1993年6月23日の中尾川方向の火砕流では,島原市千本木地区の多数の家屋が焼失したほか,警戒区域内の自宅を確認に行った市内の男性が全身やけどで死亡した.
溶岩ドームの巨大化で,1994年には北方向の湯江川や三会川方面に初めて火砕流が流下した.1995年2月には溶岩噴出が停止し,同年3月30日には九州大学太田教授より「普賢岳の噴火活動はほぼ停止」と表明があり,5月25日には火山噴火予知連絡会より「マグマの供給と噴火活動はほぼ停止状態にある」という統一見解が発表され,最数的に1996年5月1日を最後に火砕流の発生は止んだ.
しかし,溶岩ドームは依然として不安定な状態で残っており,今後も地震や大雨等による崩落の危険があることから,警戒区域については,範囲を縮小しつつも2011年現在でも設定が続けられている.

図3.1.2.4に全期間の火砕流流下範囲を示す.




図全期間の火砕流流下範囲


1.2.3. 二次災害

1991年5月15日未明に水無川において最初の土石流が発生し,島原市深江町の117世帯461人が避難した.同年6月30日には,集中豪雨により普賢岳を水源とする水無川,赤松谷川,湯江川,土黒川で土石流が発生した.6月30日の日降水量は島原市で226mmに達し,特に17〜18時に45mm,18〜19時には78mmの強い雨が降った.このため,18時過ぎに中尾川上流で土石流が発生した.水無川における土石流の発生時刻は不明であるが,土石流の先端は火口から約7km下流有明海に達し,安徳地区を
中心に甚大な被害を及ぼした.この土石流による建物被害は148棟にも上った.
1992年3月1,15日には水無川で土石流が発生し,道路や島原鉄道が一時寸断された.同年8月8,12,15日には茶屋の松橋付近から溢れた土石流が流域の30haにわたり,氾濫,国道251号や島原鉄道が埋没したほか,家屋や農地等に大きな被害をもたらし流域の家屋355棟が全半壊した.
1993年4月28日04時頃から降り始めた雨は,雲仙岳測候所で29日10時30までに総雨量238mmに達し,このため水無川で数回の土石流が発生,338棟の家屋が全半壊した(図3.1.3.1).また,この日初めて中尾川においても土石流の発生が認められ,南千本木町で家屋被害が発生した.

図3.1.3.1 土石流により押し流された自動車(1993年4月29日撮影)

また,同年5月2日に水無川,中尾川で数回の土石流が発生し被害が拡大した.また土石流発生の度に島原市は一時孤立状態になった().

図3.1.3.2 土石流による水無川の被害状況(1993年5月2日)






図3.1.3.3 1993年7月4日中尾川で発生した土石流
(1993年5月2日杉本伸一撮影)

6月13〜15日,6月18〜19日にも水無川,中尾川で数回の土石流が発生した(図3.1.3.4).

図3.1.3.4 土石流による安中地区の被害?況1993年6月20日撮影)

土石流は,1991年5月15日に水無川で発生して以来,現在に至るまで続いている.


1.2.4. まとめ

雲仙普賢岳の噴火災害を特徴づける現象は,何といっても溶岩ドーム崩落型火砕流と土石流である.とくに,火砕流はわが国における近年の噴火災害で数多くの映像記録が得られたこともあり,火山学的にも運動メカニズムや被害特性に関する多くの知見が得られた.
噴火によって山麓斜面に堆積した火山灰などの火山砕屑物が,その後の降雨によって土石流化することは有珠山1977〜78噴火でも知られていたが,雲仙普賢岳では,火砕流堆積物が厚く覆った水無川や中尾川で頻発したことも,モンスーン地帯における火山災害を考える上で多くの経験を残した.
また,噴火の長期化によって島原市を始めとする地域に社会的・経済的影響が深刻となり,被災者支援などの課題が顕在化した.火山国であるわが国の噴火災害対策の議論を進展させた意義も大きい