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雲仙岳噴火のこと 1991年ごろの話

はじめに

雲仙普賢岳は、1990年から1995年にかけて噴火をした。本格的なマグマ噴火は江戸時代の新焼溶岩を流して以来だから198年ぶりだった。最初は、1990 年11 月 17 日の小規模な水蒸気噴火であったが、徐々にマグマ性に変化し、翌年5月20日には地獄跡火口の底に溶岩が頭を出した。この溶岩は粘性が高く、溶岩流として流れずに、火口の真上に積み上がり、溶岩円頂丘となった。その噴出率は 30 万 m3/ 日に達する勢いで、溶岩円頂丘はたちまち火口からあふれ、周辺の急斜面で次々に崩壊、火砕流となって山麓に達した。6月3日には43 名の犠牲者を出す大きな火山災害となり、「火砕流」という言葉が一般に知られるきっかけとなった。
火砕流」は、高温の気体と溶岩の破片や砂などが、毎秒 100 mもの高速で移動するものである。溶岩ドームの溶岩は高温で、内部に過剰圧のガスを閉じ込めた気泡を含んでいる。このような溶岩は衝突で破壊すると自爆し、その連鎖が熱雲をともなう火砕流となる。堆積物は、砂粒子に富む火砕サージ部、礫を含み淘汰の悪い火砕流本体部、細粒の灰かぐら部に分けられる。

6月3日の悲劇

山頂が雲で覆われていて見えなかった、6月3日の午後4時、高温の溶岩ドームが、その下の古い山体の一部も巻き込んで、地すべり的に崩壊した。体積は 240 万 m3 と大きく、到達距離もそれまでの約2倍に達した。本体部は約 3.5km の谷底で停止したが、高温の火砕サージは本体より遠方の 4.1km の高台に達した。後の調査で、温度は 450℃程度と推定された。そのため、「定点」付近で写真撮影を行っていたマスコミ関係者や火山学者(クラフト夫妻とハリー・グリッケン)、タクシー運転手や警察官や消防団の方が命を落とした。「定点」というのは、上木場地区から水無川を流れ下る火砕流の撮影ができる唯一のポイントだった。火砕流から立ち上がる熱雲のベストショットを狙っていたのだ。雲仙岳で何が起きたのか、危険で現地調査もできない中、火山災害の状況把握や噴出量のできるだけ精密な計測が求められた。当時、もっとも確かな手法は空中写真測量と空中写真判読であった。

空中写真判読とディザスターマップ

6月8日には、崩壊地点に新たに成長した新鮮な溶岩ドームを含む310 万m3 が崩壊、5.5km 地点に達した。この火砕流は高温で、炎上家屋は 207 軒に達した。アジア航測では、16 日に自主撮影を行い、私は判読をすることになった。注目したのは、ビニールハウスが溶けていた範囲と、樹木の茶色変色域が一致し、最末端に及んでいたことである(図)。これは、1983 年の三宅島噴火の樹木の熱的な被害の特徴と類似していた。当時の写真判読と現地調査の経験が生きたのである。また、樹木が倒れている範囲は、火砕サージの影響と推定した。これは 1980 年のセントへレンズでの被害調査の報告とそっくりであった。困ったのは、火砕流の火口側の境界であった。溶岩ドームと火砕流の間には、円錐形の斜面を構成する崖錐性堆積物があり、両者の境界は漸移的であった。そこで、色鉛筆のグラデーションで表現することにした。色鉛筆は銀座の伊東屋に出かけ、水彩用 80 色、水彩画用の紙も用意して着色した。このよう火山噴火による、影響範囲の累積を示したものが「ディザスターマップ」である(図)。図3は、 6月3日の火砕流発生直後の判読成果である。溶岩ドームの1回の崩壊で 1 枚の火砕流が堆積する(緑色)。それよりも遠方に火砕サージの堆積域(オレンジ色から黄色)があり、さらに外側に熱的な影響範囲(水色) が取り巻く。△印は、犠牲者が発見された地点で、谷底から 40m も高い火砕サージの影響範囲内にある。図 は6月8日の火砕流発生後の6 月 16 日の写真を判読したもので、図2の斜め写真と同じ時期である。2回の火砕流は同じ方向に向かったが、2回目のほうがより遠方に達したことがわかる。図 は噴火の末期の 1993 年6月 27 日現在のもので、北側の千本木地区にも影響範囲が拡大したことがわかる。また、青と紫の色で示したものは、土石流の堆積範囲で、東側に扇型に拡大している。

定点付近で地層を観察する

1992 年末になると、溶岩ドームの成長速度は鈍化し、噴火はこのまま終息するかに思われた。私は合同観測班地質グループのメンバーとして、12 月 27 日に定点付近の現地調査を行った。たばこ畑の畝の谷間で、ディザスターマップとの比較から、噴火の履歴を確認することができた(図6)。最初の6月3日の 43 名の命を奪った火砕サージ堆積物は非常に薄く、わずか5cm 程度に過ぎなかった。その上には6月8日の高温火砕流の堆積物、さらに上位の2 枚目の砂は9月 15 日の火砕サージ(ブラスト)堆積物と推定できた。

火砕流モルタル化するか

また、27 日の調査では、水無川本流で、堆積してから 1 週間程度の1992-12-20火砕流を観察することができた(図)。本体部は灰色で、気体を多く含み、注意深く歩かないと膝までもぐってしまう。まるで「新雪」のような感触であった(図)。ところが、大雨後の 29 日に、再び同じ地点を訪問してみると、全体に赤茶色に変色自分達の足跡も完全に “ モルタル化 ” して い た 2)(図 )。図6断面を観察すると、変色固化しているのは表 層 部 の 20cm 程 度にすぎないこ と が わかった(図)
そこで、火砕流の内部から灰色の新雪のような火砕流をサンプリングし、水を加える実験を行った(図)。その結果、火砕流は数分で茶褐色に変化し、固化した(図 )。その際、気泡を出しながら激しく反応した。その後の鉱物学的な検討の結果、固化したサンプルから石膏が検出された。そこで、火砕流に含まれていた火山ガス中の硫黄分と火山灰のカルシウムと加えた水が反応し、石膏が晶出し、固化したものと考察した。また、茶色への変色変は水酸化鉄の反応であった。これらのことは、空中写真判読で、火砕流の新旧判定に役立つことになった。

まとめ

<引用文献>
  1. 1)千葉達朗(1993)雲仙岳噴火のディザスターマップの作成、土質工学会雲仙岳噴火調査委員会報告「雲仙岳の火山災害」、121-130.
  2. 2)千葉達朗(2003)スプリンターカリブモルタル化した火砕流上を走るか(大規模カルデラ噴火 -- そのリスクと日本社会)、月刊地球、25、死都日本シンポ特集号、849-852.