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石巻の微地形を測る(高校同窓会誌原稿)

tchiba2012-12-28

2011年3月11日、M9.0の東日本太平洋沖地震が発生した。石巻地方は、30年以内に宮城県沖地震の発生する確率は99%と予想されていたので、防災対策は万全のはずだった。しかし、この想定地震の規模はわずかM7.6であったため、想定以上の大地震と大津波に襲われた。石巻では多くの方が犠牲になった。まさに痛恨の極みである。
石巻は、江戸時代に、人工的に開削された北上川の河口にできた町で、海と川の交通の要衝として発展してきた。平安時代津波の記録が残る多賀城と違って、こんな規模の津波は、石巻にとっては初体験だったのだ。
しかし、実はこの平安時代の「貞観津波」が、石巻地方にも到達していたことが、最近わかってきていた。それは、水田の黒土の下から薄い砂層が相次いで見つかったのだ。この砂層は、十和田火山の約1000年前の噴火による火山灰の直下にあり、海に棲む微生物の化石を含むので、津波堆積物に間違いないという。このことは、2007年に学会の会場で聞いた。見慣れた石巻平野の地図の上に、津波堆積物が発見されたという赤丸印が、海岸から蛇田のイオンのすぐ西まで並んでいた。正直、驚いた。発生する確率は、せいぜい1000年に一回くらいだ。
「この辺にも大津波が来ていたことがわかった。でも、平安時代に一回だけあった。まあ、それほど心配はない」、と、蛇田に住む母に話をした。地震の発生確率は、大規模なものほど小さい。グーテンベルグ・リヒター則に従う。明日という可能性は、かなり低い。
3月11日、地震が発生した瞬間、小田急線の新百合ヶ丘近くのビルの八階にいた。大きく揺られながら、「しまった、貞観津波の再来は、今日だったのか。」と、不明を恥じいるしかなかった。みんな、油断していたのだ。
石巻市内を流れる旧北上川は、全国唯一の無堤一級河川である。川沿いの岸壁に寄り添うように市街地があるという構造は、江戸時代のままである。これまでも、1960年のチリ地震津波や高潮や洪水のたびに、水が上がったが、それを甘受してきた。まさに、日本のベネチアである。防災のために堤防を作るという計画には、反対の声が多かったのだ。
 わたしの母校である門脇小学校は、三階建ての鉄筋コンクリートの校舎で、敷地も周囲より数m高い。これまで、ここまで津波がきたことはない。津波の際の避難所には指定されていなかったが、多くの人が門小に集まったのは、自然なことだった。そして、その津波はやってきた。燃え上がる木造家屋が校舎にぶつかり延焼、校庭の車のせいもあったのか、全焼してしまった。地震から、1ヶ月後、門小の校庭から南をみると一面の焼け野原であった。ここで生まれ育ち、いま防災の仕事に携わる人間として、石巻のために何かしなければいけないという、使命感のようなものを強く感じた。
それから一年半後、私は、TBSの「夢の扉+」という番組の取材で、日和山にいた。石巻のレーザー計測をするためである。数年前に発明した「赤色立体地図」という地形表現手法は、最新の航空レーザー計測の表現に最適で、引っ張りだこだ。これが、私の子供のころからの夢を実現したものだ、というストーリーで三〇分番組を作りたいというのだ。どこかで実際に計測もできるということだったので、ぜひ石巻を、と希望し実現したのだ。
石高時代の三年間、バレーボールに明け暮れる毎日だったが、実は、2万5千分の一の地形図の等高線を愛してやまない高校生でもあった。九枚の地図を貼りあわせ、南光町の十条製紙の社宅の2階に昇る階段の広い壁を覆い尽くしたとき、自分が鳥になったような気がした。ラインマーカーで微地形を塗り分け、旧河道や砂丘をみつけては感動する高校生だった。それが高じて、地形や地質を学び、今はアジア航測という会社に勤務している。
今回の津波による被害と、微地形との関係。その後の地形の変化。南浜町は、北上川沿いは今どうなっているのか。駅裏は・・。今回の計測で、それらの詳細を明らかにできた(赤色立体地図)。この画像は、希望者には提供可能なので、連絡をいただければと思う。