赤色立体地図weblog

はてなダイアリーから移行してきました

玉川上水を赤色立体地図を見ながら歩く

はじめに

赤色立体地図で多摩を見るシリーズ第2弾は玉川上水です。「赤色立体地図」は、急斜面ほどより赤く、尾根ほど明るく、谷ほど暗くした画像です。真上からの画像にもかかわらず、何となく立体的に見えるために、微地形と大地形を同時に広い範囲で把握することが可能です。玉川上水のある武蔵野台地は、河岸段丘や浅い谷が複雑に入り組み、赤色立体地図の表現力を生かすにはよい地形です。今回は、この図を判読し、携えて現地を歩いて、気がついたことを紹介したいと思います。

地形データ

使用したデータは、国土地理院の「基盤地図情報5m標高A(レーザ計測)」です。レーザ計測とは、上空の航空機から地上にむけてレーザ光を発射し、戻ってくるまでの時間から、航空機と地上の距離を求めるものです。航空機の位置と高度は既知なので、地表面高(地面以外に樹木や建物も含むDSM)を求めることができます。また、樹木の隙間を通って地面に到達したデータのみを使用することで、樹木の影響を排除できます。さらに建物や橋なども除去したものは、裸の地形つまり地盤高(DEM)としての利用が可能となっています。ここ10年で、全国の50%以上の地域で計測が完了し、すこし間引いた5mメッシュのデータが公開されているのです。玉川上水の水路の幅を考えると、やや解像度不足ですが、ルートを重ねることで、関係性がよくわかるはずです。当時、世界最大の都市、江戸の発展の鍵となった、玉川上水がどのようにして、地形との戦いに勝利したのかを見てみましょう。使用した現地写真は、大里重人さんと2019年の6月13日に撮影したものです。

概要

玉川上水は、承応2年(1653年)に水不足を解消するために、多摩川のきれいな水を江戸まで運ぶために作られた水路です。羽村の取水堰から四谷大木戸の終点まで、全長43kmですが、高度差は92mに過ぎません。わずかな勾配によって水が自然流下する設計で、現在でもその一部は上水道の原水として利用されている、すばらしい土木構造物です。図1に全体の位置図を示します。

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図1 玉川上水の全体図(赤色立体地図)
この図で見てもわかるように、玉川上水は地形とルートの形状から、おおむね3つの区間に区分することができます。
(1)段丘登り区間(取水口から小平まで)
(2)尾根区間(小平から代田橋まで)
(3)谷戸避けくねくね区間代田橋から新宿まで)

(1)段丘登り区間

羽村の取水堰から小平にかけては、何段もの河岸段丘を登るルートです。低い方から順に、現河床面、拝島面、立川面、武蔵野面です。現河床も段丘面も、下流ほど標高が低くなるので、水路の勾配をそれらよりも緩くすることで、下流にいくにつれて徐々に段丘を登ることが可能となります。その付近の拡大図を示します(図2)。なお、段丘面の傾斜は、ほぼ現河床と同じですが、立川面だけは氷河時代で海面が低かったために、ほかの面よりも傾斜が急です。

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図2 段丘登り区間
また、これまでの研究による段丘面区分図を示します(図3)。
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図3 段丘面区分図(表層地形分類図による)
どのようにして、段丘を登ったのか、共通点を整理してみました。まず、相対的に低位の段丘上で溝を掘り、徐々に溝を浅くしながら水面を相対的に高くしていく。さらに崖に寄り添うような形で切り盛りをしながら徐々に登り、最終的に上の段丘面に作った溝に接続する。土工量や時間を考慮すると、溝が浅く盛土や堤が多い方が経済的ですが、複数の地点(福生加美上水公園 と水喰土)では、水がしみこんだり、盛土の堤が崩れるということが度々起きたようです。その後、改修工事が行われ、どちらも高い段丘側に深い溝を掘るルートに変更されました。赤色立体地図で見ると、その苦労のあとが、よくわかります。

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宿橋付近の透明な水
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樹木で覆われた玉川上水

(A)福生加美上水公園

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段丘崖を登る苦労
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段丘上の水路の付け替え
段丘崖の外側に沿うようにあった水路が破棄され、段丘面上に深い溝として作り直されているのがわかります。掘削土は、新しい溝の隣、崖側に高く盛り上げられています。破線で示したが旧水路の痕跡で1975年の写真を判読したものです。

(B)水喰土公園のルート変更

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旧ルートは崖のへり
線路の影響でかなりわかりにくいですが、1975年のカラー空中写真を判読すると、段丘崖の縁に沿うように円弧状の水路跡が見られます。水喰土公園はその分岐点付近に残された痕跡です。新水路は、段丘面上に深い溝として、直線的に作り直されています。

(C)立川断層崖と残堀川の逆サイホン

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逆サイホンと立川断層
例外的に南北方向に流れる残堀川の水は、清流だったころは玉川上水に合流させていたようですが、汚れてからは立体交差をさせるための工夫がされています。赤色立体地図では交差部で、玉川上水が逆サイホンで、残堀川をくぐっている様子がよくわかります。また、立川断層の崖では、段差を越えるために、断層の西側部を盛土構造にし、東側を溝にし、急カーブすることで、うまく乗り越えています。

(2)尾根沿いほぼ直線区間

小平付近から代田橋付近まではほぼ直線の尾根区間です。この付近は、M面になりますが、仙川の上流部と石神井川神田川の上流部の間のやせた平たい尾根地形をうまく利用しています。一定の勾配で水路建設にうってつけの地形だったのでしょう。

(3)谷よけくねくね区間

代田橋付近から新宿まで、玉川上水は極端に曲がりくねった流れとなります。この付近の地形面は、M面よりも少し古いS面で、淀橋台ともよばれます。そのため、谷がかなり発達しているのです。二つの谷に挟まれた、尾根は狭くていまにも切れそうです。この狭い尾根を水路をたくみに蛇行させることで乗り切り四谷まで到達させて技術には驚かされます。この区間、大半は暗渠化されいますが、まだ4箇所で断続的に、往時の水路地形を見ることができます。水路の部分は、5mメッシュの地形データで「水部」になっていないので、流量はごくわずかで、水深もきわめて浅いものでした。

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淀橋台の玉川上水

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代田橋駅から初台駅付近

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笹塚駅南の玉川上水
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笹塚付近を流れる玉川上水


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明大前から初台付近までの地形

まとめにかえて(デスマス体に修正しました)

国土地理院のニ万五千分の一地形図は、空中写真測量図化によって作成されます。空中写真はセスナの胴体の穴につけた航空カメラ(23㎝フィルム)で、連続的にラップさせながら撮影します。図化は、2枚ずつ立体視しながら等高線を描く作業です。ところが、樹木が密生しているところでは、地面がほとんど見えない場合があります。そういうときは、樹木の高さを想定しながら、下の地形の高さを推定して等高線を描くしかなく、実際の地形と乖離することも珍しくなかったのです。
今回の赤色立体地図作成に使用したデータは、レーザ計測によるものです。玉川上水の水路や堤の微地形もよく見えると大いに期待していました。ところが、実際には、それほどは見えなかったのです。
玉川上水の上流部では、5m以上の幅があり、分解能も十分です。ところが肝心の水路の部分が水部扱いで、nodata扱いとなっていました。レーザ光線は水面で全反射してしまうので、水路の底の高度は計測できなかったのです。水面の高さは変動するので、nodataにすることになっています。これでは、詳しい地形断面図はむずかしいと断念せざるを得ませんでした。
もう一点は、溝や窪地堤や丘があるのに、きちんと表現されずに無視されているという点でした。これは、5m以下のサイズの微地形の場合はいたし方ないのですが、それ以上のサイズでも見えないことが、しばしばありました。たとえば、玉川上水が立川断層の段差を登る地点のすぐわきに、高さ7mほどの、人工の築山があり、頂には金毘羅神社が鎮座しています。ところが、この地形は、まったく表現されてません。上を樹木が覆っているために、すべて樹木でできていると勘違いされたのでしょうか。また、玉川上水の上を覆い隠すように樹木が密生している場合も、十分な幅と深さの溝があるのに、全く表現されていないことがしばしばありました。
 現地調査の際に、こういう違いに気が付いて、いろいろ考えるのも醍醐味の一つなのでしょう。
赤色立体地図は、玉川上水のような土木構造物の査にも有効であることがわかりました。今後も、現地調査をしたいと思いました。
なお、今回の調査に使用した、赤色立体地図は、セブンイレブンネットプリントで入手可能です(補足参照)。

参考文献

https://www.lib.fussa.tokyo.jp/digital/digital_data/connoisseur-history/pdf/08/05/0007.pdf

  • 吉江勝広(2012)土木技術と文化財保護の視点からみた玉川上水再考-特に福生市域を対象として-、公益財団法人とうきゅう環境財団

http://www.tokyuenv.or.jp/wp/wp-content/uploads/2012/12/204.pdf

  • ()玉川上水の開削と新堀工事 第一節 上水掘削と水喰土 634-666、福生市

https://www.lib.fussa.tokyo.jp/digital/digital_data/connoisseur-history/pdf/07/01/0025.pdf

  • 角田清美()「水喰土」を自然地理学の立場から調べる、みずくらいど、3、2-22.

[https://www.lib.fussa.tokyo.jp/digital/digital_data/connoisseur-history/pdf/08/03/0003.pdf

  • 渡部一二(2004)図解武蔵野の水路-玉川上水とその分水路の造形を明かす-,222p,東海大学出版会

新藤()水喰土

雲仙岳噴火のこと 1991年ごろの話

はじめに

雲仙普賢岳は、1990年から1995年にかけて噴火をした。本格的なマグマ噴火は江戸時代の新焼溶岩を流して以来だから198年ぶりだった。最初は、1990 年11 月 17 日の小規模な水蒸気噴火であったが、徐々にマグマ性に変化し、翌年5月20日には地獄跡火口の底に溶岩が頭を出した。この溶岩は粘性が高く、溶岩流として流れずに、火口の真上に積み上がり、溶岩円頂丘となった。その噴出率は 30 万 m3/ 日に達する勢いで、溶岩円頂丘はたちまち火口からあふれ、周辺の急斜面で次々に崩壊、火砕流となって山麓に達した。6月3日には43 名の犠牲者を出す大きな火山災害となり、「火砕流」という言葉が一般に知られるきっかけとなった。
火砕流」は、高温の気体と溶岩の破片や砂などが、毎秒 100 mもの高速で移動するものである。溶岩ドームの溶岩は高温で、内部に過剰圧のガスを閉じ込めた気泡を含んでいる。このような溶岩は衝突で破壊すると自爆し、その連鎖が熱雲をともなう火砕流となる。堆積物は、砂粒子に富む火砕サージ部、礫を含み淘汰の悪い火砕流本体部、細粒の灰かぐら部に分けられる。

6月3日の悲劇

山頂が雲で覆われていて見えなかった、6月3日の午後4時、高温の溶岩ドームが、その下の古い山体の一部も巻き込んで、地すべり的に崩壊した。体積は 240 万 m3 と大きく、到達距離もそれまでの約2倍に達した。本体部は約 3.5km の谷底で停止したが、高温の火砕サージは本体より遠方の 4.1km の高台に達した。後の調査で、温度は 450℃程度と推定された。そのため、「定点」付近で写真撮影を行っていたマスコミ関係者や火山学者(クラフト夫妻とハリー・グリッケン)、タクシー運転手や警察官や消防団の方が命を落とした。「定点」というのは、上木場地区から水無川を流れ下る火砕流の撮影ができる唯一のポイントだった。火砕流から立ち上がる熱雲のベストショットを狙っていたのだ。雲仙岳で何が起きたのか、危険で現地調査もできない中、火山災害の状況把握や噴出量のできるだけ精密な計測が求められた。当時、もっとも確かな手法は空中写真測量と空中写真判読であった。

空中写真判読とディザスターマップ

6月8日には、崩壊地点に新たに成長した新鮮な溶岩ドームを含む310 万m3 が崩壊、5.5km 地点に達した。この火砕流は高温で、炎上家屋は 207 軒に達した。アジア航測では、16 日に自主撮影を行い、私は判読をすることになった。注目したのは、ビニールハウスが溶けていた範囲と、樹木の茶色変色域が一致し、最末端に及んでいたことである(図)。これは、1983 年の三宅島噴火の樹木の熱的な被害の特徴と類似していた。当時の写真判読と現地調査の経験が生きたのである。また、樹木が倒れている範囲は、火砕サージの影響と推定した。これは 1980 年のセントへレンズでの被害調査の報告とそっくりであった。困ったのは、火砕流の火口側の境界であった。溶岩ドームと火砕流の間には、円錐形の斜面を構成する崖錐性堆積物があり、両者の境界は漸移的であった。そこで、色鉛筆のグラデーションで表現することにした。色鉛筆は銀座の伊東屋に出かけ、水彩用 80 色、水彩画用の紙も用意して着色した。このよう火山噴火による、影響範囲の累積を示したものが「ディザスターマップ」である(図)。図3は、 6月3日の火砕流発生直後の判読成果である。溶岩ドームの1回の崩壊で 1 枚の火砕流が堆積する(緑色)。それよりも遠方に火砕サージの堆積域(オレンジ色から黄色)があり、さらに外側に熱的な影響範囲(水色) が取り巻く。△印は、犠牲者が発見された地点で、谷底から 40m も高い火砕サージの影響範囲内にある。図 は6月8日の火砕流発生後の6 月 16 日の写真を判読したもので、図2の斜め写真と同じ時期である。2回の火砕流は同じ方向に向かったが、2回目のほうがより遠方に達したことがわかる。図 は噴火の末期の 1993 年6月 27 日現在のもので、北側の千本木地区にも影響範囲が拡大したことがわかる。また、青と紫の色で示したものは、土石流の堆積範囲で、東側に扇型に拡大している。

定点付近で地層を観察する

1992 年末になると、溶岩ドームの成長速度は鈍化し、噴火はこのまま終息するかに思われた。私は合同観測班地質グループのメンバーとして、12 月 27 日に定点付近の現地調査を行った。たばこ畑の畝の谷間で、ディザスターマップとの比較から、噴火の履歴を確認することができた(図6)。最初の6月3日の 43 名の命を奪った火砕サージ堆積物は非常に薄く、わずか5cm 程度に過ぎなかった。その上には6月8日の高温火砕流の堆積物、さらに上位の2 枚目の砂は9月 15 日の火砕サージ(ブラスト)堆積物と推定できた。

火砕流モルタル化するか

また、27 日の調査では、水無川本流で、堆積してから 1 週間程度の1992-12-20火砕流を観察することができた(図)。本体部は灰色で、気体を多く含み、注意深く歩かないと膝までもぐってしまう。まるで「新雪」のような感触であった(図)。ところが、大雨後の 29 日に、再び同じ地点を訪問してみると、全体に赤茶色に変色自分達の足跡も完全に “ モルタル化 ” して い た 2)(図 )。図6断面を観察すると、変色固化しているのは表 層 部 の 20cm 程 度にすぎないこ と が わかった(図)
そこで、火砕流の内部から灰色の新雪のような火砕流をサンプリングし、水を加える実験を行った(図)。その結果、火砕流は数分で茶褐色に変化し、固化した(図 )。その際、気泡を出しながら激しく反応した。その後の鉱物学的な検討の結果、固化したサンプルから石膏が検出された。そこで、火砕流に含まれていた火山ガス中の硫黄分と火山灰のカルシウムと加えた水が反応し、石膏が晶出し、固化したものと考察した。また、茶色への変色変は水酸化鉄の反応であった。これらのことは、空中写真判読で、火砕流の新旧判定に役立つことになった。

まとめ

<引用文献>
  1. 1)千葉達朗(1993)雲仙岳噴火のディザスターマップの作成、土質工学会雲仙岳噴火調査委員会報告「雲仙岳の火山災害」、121-130.
  2. 2)千葉達朗(2003)スプリンターカリブモルタル化した火砕流上を走るか(大規模カルデラ噴火 -- そのリスクと日本社会)、月刊地球、25、死都日本シンポ特集号、849-852.

大学1年生の頃

一般社団法人 全国地質調査業協会連合会 関東地方地質調査業協会 機関誌 原稿作成中 7月末締め切り 2ページ A4 2段組

はじめに

1975年春、日本大学文理学部の応用地学科というところに入学した。サイクルサッカー部からは、一発で乗りこなしたので、かなり勧誘されたが、文理の写真部とオール日大の美術部に入った。東京の大学にはいったら美術部にはいれば裸婦クロッキーができるから必ず入れという高校の先輩のアドバイスに従ったのだ。中学時代から集めていた1/2.5万地形図コレクションは200枚くらいあった。等高線フェチだったのかもしれない。都内の大学なので、大きな書店に行って全国の1/2.5万がいつでも入手できると言うだけでわくわくしていた。
5月に行われた新入生歓迎巡検ではじめて地質調査を体験し一度でやみつきとなった。写真部も美術部もかなり頑張って、将来を期待されていたのだけれども、基本的に4年間地質調査に明け暮れた。現地調査に行かない時も、薄片作成講習会や顕鏡講習会・読書会と行事が続いた。今にして思えば、当時は高度経済成長真っ盛り、沢沿いには砂防ダムも少なく露頭があり、道路沿いもあちこちに地層が露出し、家の裏の崖や採石場や工事現場にも自由に入れたので、地質学を学ぶには最適だったのかもしれない。
たとえば、1年生の冬の合宿所は廃校になった小学校。温泉街の奥の方にあった。シュラフとは名ばかりのうすべりの綿入れの中に潜り込んで横になるが、寒くてなかなか眠れなかった。毎日先輩とチームを組んで沢に入り露頭を叩きながら沢を詰める。次々に現れる地層をハンマーで叩いて表面の苔をはぎ取り、岩石を取り上げルーペで確認し地層の特徴を記入する。クリノメーターで走向傾斜を測り、進む方向を測定し、距離を目測で測り、一歩一歩ルートマップを描きながら進む。1/2.5万地形図を1/1万に拡大した陽画も持参しているけれど、遠くの山は見えず、等高線から現在地を、逐一把握することはとても出来ないのだ。宿に戻ったらロットリングでルートマップの墨入れを行い、セクショントレペにトレース。それから全体の形を見ながら、1/1万地形図プロットしていく。その後、裏打ちされた1/1万野稿図にも、走向傾斜をプロトラクターで正確に記入して地層の色を色鉛筆で塗っていく、それが終わってからミーティング。その日の調査報告をする同じ班の先輩の話を聞きながら、あれはそうだったのかと納得したり、違うよなあとおもったりする。隣の沢を詰めた班の報告から同じ地層がありそうだと言うことになると、仮に線で結んでいくことになる。そこで使うのが地質図学。かっこいい。次の日の班分けを決めるときに、昨日見た鍵層が出そうな沢を選んで、班員に立候補する。翌朝、わくわくしながら調査にゆき、図学で予想した地点で同じ鍵層に出会ったときの感激は忘れられない。

慶良間諸島の地形

地形地質

これまでの知見では
保存すべき重要な景観資源
として「完新世サンゴ礁原」があげられていた

津波堆積物

慶良間諸島の高度10mから50mにかけての高度では
厚さ10〜30cmの灰白色砂層が、斜面と平行に覆うように分布して地点を
多数確認できる。
一般的に斜面と平行に覆うように分布する地層は、マントルベッティングとも
呼ばれ、風成層の特徴である。火山灰やレスが考えられる。

しかしながら砂の分析をしたところ、石英や斜長石の破片であった。

この層と基盤岩の間には、大きさが数センチ程度の礫が認められることがある。
このような礫は、水の力で運搬される必要がある。
これらの二つの事実を整合的に説明するのは
津波による堆積物であるという仮説がもっともらしい

これまで、慶良間諸島では津波堆積物の分布は報告されておらず
八重山諸島で確認されている津波石をもたらした
津波の影響範囲からも離れている
また、津波堆積物であるとした場合高度50mを超えることは
防災上非常に大きな意味を持つ。

これらの地層は、林道沿いの崖で多数確認することができる
今後の精密な調査のためにも、
道路沿いに地層が露出する景観が失われないように
保護管理が必要と思われる



 

Profile

Mr. Chiba is director of Researh Institute at Asia Air Survey Co., Ltd.,and part-time Lecturer of Nihon Univ.His specialized field is volcanology and geology,main task is the making volcanic hazard maps.He have invented the technique called "Red Relief Image Map" in 2002. After that, get a patent in Japan, USA and China.This new thqunique "RRIM" is good for geological survey and descriptive hazard map. He was borne in 1956 in Ishinomaki city,Myagi pref. that was devastated by the tsunami of 3-11.

赤色立体地図の防災利用

日本でのLiDARと赤色立体地図を使用した、地形判読や防災対策を紹介する。
 日本は自然災害が多い。島孤海溝系に位置するため火山や地震が多く、モンスーン地域のために台風も多く襲来する。また、山地が多いため、平地や海岸沿いに人口が集中し、都市が発達し、きわめて脆弱である。ミュンヘン再保険機構によれば、東京横浜地域の自然災害リスクは世界で最も高い。自然災害は同地点で繰り返し起こることが多い。古記録と地形・地質調査から災害の履歴を知ることは重要である。このような調査にとって樹木で覆われている地域の、詳細な地形計測はきわめて困難であった。”航空レーザ計測”は、森林地帯の樹木を取り除いた詳細な地形を測定できる画期的な手法である。ところが、精密なデータを等高線図や陰影図や高度段彩図では、適切な縮尺で表現できず、実用上の課題となっていた。2002年に千葉が開発した赤色立体地図は、傾斜が急なところほど赤く尾根ほど明るく谷ほど暗く着色する独創的な手法で、1枚の画像でありながら立体感があり、微地形を精密にすべて表現できる。この画像の利用により、地形判読や現地調査、ハザードマップ作成などで、LiDARデータの積極的活用が進められている。ここでは、火山防災や山地災害対策、津波災害の対策などでの利用事例を紹介する。

                                                                                                                              • -

Located along island arc-trench system, Japan is a nation under high danger of natural disasters, which usually occur repeatedly in the same locations. Add to refer historical records, it is important to investigate micro-topography so as to confirm marks of those disasters. Detailed topographical data is the most important condition for such investigation. So far, locations covered by dense trees were very difficult to be investigated correctly and effectively.
In 2002, I invented Red Relief Image Map (RRIM) to express topography.Here, I introduce examples for topographical interpretation and disaster countermeasures using Lidar and RRIM in Japan.

山体崩壊

山体崩壊(さんたいほうかい)は、sector collapse の訳である
火山体の一部が大規模に崩壊する現象である。
火山の噴火や地震動あるいは大雨などが引き金になって発生する

火山は同一の火口噴火を繰り返した結果積み上げられた円錐形をなすことが多く、
おおまかにいえば固結度が低く不安定である。
近距離で大きな地震があって揺さぶられたり、爆発的な噴火があったりすると、
それがきっかけで山体の一部が、
最大傾斜方向に馬蹄形に崩れる、これを山体崩壊と呼ぶ。
山頂部を巻き込むこともあるがそうではないこともある。



富士山でも、過去10万年間に5回以上の山体崩壊の発生が確認されている
たとえば、2900年前に発生した「御殿場岩屑なだれ」の
崩壊土砂量は、約18億立方メートルである。